「食事の場で生まれる人とのコミュニケーションが制作の原点」野田夏実さんが語る作品が生まれるまで

陶器作品を制作するアーティストの野田夏実さんのインタビューをお届けします。
野田さんの制作の原点には、人と食事が深く関わっています。
作品はどのように生まれたのか、そしてどのように変化していっているのか。
テーマごとに3回に分けてお話をお伺いしていきたいと思います。
第一回目は陶器の作品をどのようにつくりはじめたのか、そして「野田夏実」「Imustan」という2つのラインがどのように生まれたのか聞いていきます。  

野田夏実インタビュー

〝  食事の場は、とても楽しいもので、
これは生まれ育った下町の環境とも共通するのですが、
そこから生まれる人とのコミュニケーションが制作の原点になっているように思います  〟



どのように陶器作品をつくりはじめられたのでしょうか?

- まずは、いつごろから陶器の作品の制作を始められたか教えていただきたいです。

高校から陶芸ができるところを選びました。選択系の総合高校だったので、絵をやる人もいれば、工業系の制作をする人もいて、私は陶芸を選択しました。卒業制作として自由課題で作品をつくることになっていたので、みようみまねで制作したのがはじまりかなと思います。 

- 子どもの頃から陶芸に興味があったのでしょうか。
もともと私の実家のある町内は、美大や藝大出身者がなぜかとても多いという環境でした。例えば裏の家が刀研ぎをしていたり、日本刺繍のすごい方がいたりとか。両親も元々カメラマンですし、親戚も建築やウェブデザインをやっていたり。
私自身も小学生から同じ町内の方が運営する絵画教室に通い、絵や造形を習っていて、子供の頃から手で物をつくるということが、とても身近な環境でした。
その後、藝大(東京藝術大学)に行きたくて浪人していたのですが、同じ町内の藝大出身の方が、芸工大(東北芸術工科大学)が良さそうだよ、というのを聞いて興味を持ちました。たまたまその方の知り合いが芸工大にいる時期で、先生は藝大出身の方が多くて、新しい学校だから自由な校風だと。
- それで東北芸術工科大学に進まれたんですね。4年間陶芸を学ばれて。

はい。最初の3年間は、一通りのことを学びました。釉薬の調合や土鍋だけの授業、石膏型を使った制作など、それぞれ専門的で広範囲のことを3年間で学んで、4年生になると、あなた何やりたいの?と聞かれるので、3年間の基本的な授業の合間に、自分の作風も探す、という感じで、とても忙しくアルバイトもできませんでした。 
ただ、アルバイトはできなくても、食についてはとても豊かだったんです。 
山の途中に大学があるんですけれど、歩いていると田んぼや畑も多くて、軽トラックに乗ったおじいさんが突然手を出せ、というので手を指しだすと、さくらんぼを突然バラバラと手に乗せてくれて、去っていくみたいな環境でした。
大学でも畑をやっていて、野菜を収穫したり、春になると敷地内の竹藪で筍が取れたりと。
土地柄もあるのかもしれないですが、大学の設備の方が猟をしていたりして、キジの肉を分けてもらって、自分たちの作った鍋でキジ鍋をしたり。
印象的な課題があって、最初の週は工芸コース全員でバスに乗せられて牧場に行き、羊をスケッチして、翌週には羊の毛を刈って糸巻き機で糸を撚る、その次は肉を焼く道具を鍛金で作り、次は米を炊く道具を陶芸で作り、食べるための道具、スプーンや箸を木で作って、それを漆で加工して蒔絵で飾り、最後にジンギスカンをする、という授業でした。
自分たちで作ったものを使うことで使いやすさについて考えようという、意図なのですが、ジンギスカンもすごく美味しくて。

- まさに循環、自然と人間の営みという感じですね。
そうですね。先生も食が好きな先生が多かったので、食に対して貪欲でした。(笑)
大学生活ではお金に余裕があるという状況ではありませんでしたが、食事の場は、とても楽しいもので、これは生まれ育った下町の環境とも共通するのですが、そこから生まれる人とのコミュニケーションが制作の原点になっているように思います。
- その後アーティストとして活動をはじめられた経緯は?

4年生のときに日本クラフト展に出品して奨励賞をいただいたんですけど、大学の先生に「賞をもらったら、そこから作家だよ。」と言っていただいて、そうなんだ、と自覚したという感じです。

- その後、東京に戻られたんですね。
はい。仕事はやはり東京が多かったのと、実家が東京というのもあったのですが、ちょうど実家の横にガレージがあり、窯がおける、ということで。本当に窯1台分ピッタリくらいの。(笑) 
大学の先生から窯屋さんも紹介していただいて、たまたま数時間しか焚いていない窯が中古で見つかって。ラッキーでした。
そこからは東京を拠点に活動しています。


野田夏実インタビュー

 

 

” 子供の頃から手で物をつくるということが、とても身近な環境でした。 ”

 


「野田夏実」と「Imustan」2つのラインはどのように生まれたのでしょうか?

- ご本名の「野田夏実」と「Imustan」という2つの名義で活動されていると思いますが、それぞれどのようにはじめられたのか教えていただけますか。
 野田夏実名義のもとになったのは、大学三年生のときの地元の和菓子屋さんとお茶会をやるという授業で、自由に菓子器や茶器を作るという課題で制作した作品でした。最初は自由にといっても作れないだろうから、模刻(模写の立体版)をやってみよう、ということで、写真だけで気になるものを選んで、調べずにそのものに近づけていく。オリジナルの技法というか、自分なりにそれをこう再現していくんですね。
私が選んだのはメキシコの1930年代の民芸の陶器で、トナラ地方というところで作られるトナラ焼きという焼き物です。その中でもアーティスト寄りの作品のコレクションが載っている本で見たお皿がすごく好きで。
再現しているうちに、思いのほかうまくいって、作っていても楽しかったのですが、先生にも向いているんじゃない?と言っていただいて。
ー 作風が決まっていった感じですね。 

はい。実際のトナラ焼きと技法は全然違っていると思うのですが、背景に色があって、地があって、絵付けをして、というところは元になっていると思います。

ー Imustanのほうはどうでしょうか?
もともと学生時代に課題の合間にこっそり作っていたのは、今のイムスタンに近いものでした。なので、どちらも並行していたという感じです。
野田夏実名義の方は、先程のメキシコの焼き物からインスピレーションを受けて作風が決まっていったのですが、Imustanの方は、最初に関わった宮城のギャラリーからマグカップの別ライン出したら、と提案を受けたのが大きかったです。
そのころSANZOKUの根本さんとも、ちょうどお話をする機会があって、お客様が混乱するので、わかりやすいように2つのラインでやってみたら、とアドバイスをいただいて。

 

ー それで2つのラインで展開するようになったんですね。次は2つのブランドのコンセプトやモチーフについて教えてください。

 

次回へ続きます。
>> 次回はコンセプトやモチーフについて更に深く伺っていきたいと思います。
 

>> 野田夏実/Imustanの作品はこちら