著者:ロラン・バルト
翻訳:花輪光
言語:日本語
サイズ:四六判
出版社: みすず書房
《狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のぺージをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる》(ロラン・バルト)
本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(《それはかつてあった》)を明証しようとした写真論である。細部=プンクトゥムを注視しつつ、写真の核心に迫ってゆくバルトの追究にはまことにスリリングなものがある。本書はまた、亡き母に捧げられたレクイエムともいえるだろう。私事について語ること少なかったパルト、その彼がかくも直接的に、母の喪の悲しみを語るとは! 本書は明らかに、著者のイメージ論の総決算であると同時に、バルトの『失われた時を求めて』となっている。
《『明るい部屋』の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている》(J・デリダ)
ロラン・バルト
1915年フランスのシェルブールに生まれ、幼年時代をスペイン国境に近いバイヨンヌに過す。パリ大学で古代ギリシア文学を学び、学生の古代劇グループを組織。結核のため1941年から5年間、スイスで療養生活を送りつつ、初めて文芸批評を執筆する。戦後はブカレストとアレクサンドリアでフランス語の講師、その間に文学研究の方法としての言語学に着目、帰国後、国立科学研究センター研究員、1954年に最初の成果『零度のエクリチュール』(邦訳、みすす書房、1971)を発表。その後、エコール・プラティック・デ・オート・ゼチュードの〈マス・コミュニケイション研究センター〉(略称セクマ)教授を経て、1977年からコレージュ・ド・フランス教授。1980年歿。邦訳されている著書は他に『エッセ・クリティック』(晶文社)『記号の国』『現代社会の神話』『ミシュレ』『物語の構造分析』『モードの体系』『S/Z』『旧修辞学』『サド、フーリエ、ロヨラ』『新=批評的エッセー』『彼自身によるロラン・バルト』『恋愛のディスクール・断章』『テクストの快楽』『文学の記号学』『第三の意味』『バルト〈味覚の生理学〉を読む』(以上、みすず書房)等がある。
花輪光
1932年山梨県に生れる。1955年東京教育大学文学部仏文科卒業。1959年同大学大学院博士課程中退。元筑波大学文芸・言語学系教授。1999年歿。著書『ロラン・バルト』(1985、みすず書房)。訳書 B.バンゴー『カミュの《異邦人》』、P.コニー『自然主義』、R.バルト『新=批評的エッセー』『物語の構造分析』『文学の記号学』『言語のざわめき』『記号学の冒険』(1977、1979、1981、1987、1988、みすず書房)R.ヤーコプソン『音と意味についての六章』(1977、みすず書房)、E.バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(共訳、1983、みすず書房)、R.ヤーコブソン他『詩の記号学のために』(編著・共訳、1985、書肆風の薔薇)、G.ジュネット『物語のディスクール』(共訳、1985、書肆風の薔薇)、カルヴェ『ロラン・バルト伝』(1993、みすず書房)ほか。